こどものおもちゃのレビューの前に。
『ヘンゼルとグレーテル』について話したい。
グリム童話に収録されている作品だ。この作品はヘンゼルとグレーテルという兄妹が木こりの夫婦に捨てられる話である。
…こどものおもちゃのレビューの前に。
『ヘンゼルとグレーテル』について話したい。
グリム童話に収録されている作品だ。この作品はヘンゼルとグレーテルという兄妹が木こりの夫婦に捨てられる話である。
兄のヘンゼルは隣の部屋から漏れた会話を聞く。両親が自分たちを捨てる相談をしていた。その夜、ヘンゼルは月夜に光る白い石をポケットいっぱいに集めておいた。
翌日になって森の奥に連れていかれる。ヘンゼルは白い石を落としながら歩いた。帰りの道しるべだ。
両親ははぐれたフリをしてヘンゼルとグレーテルの2人を森に置いて帰ってしまう。だが、2人は白い石をたよりに家に帰ることに成功する。両親は喜ぶそぶりを見せたが内心ではイライラしていた。
ヘンゼルはまた、自分たちが捨てられる相談を聞く。同じように森に連れて行かれる。今度は小石を拾うことができなかったので、代わりに弁当のパンを小さく砕いて、道に落としておいた。両親がいなくなったあと、2人は目印のパンを探すが、鳥に食べられてしまっていて見つけることができなかった。
さて。
『こどものおもちゃ』は、僕にとっては捨て子をテーマにした物語だ。主人公の倉田紗南だけでなく羽山秋人の家庭にも捨てられた子どもの要素があり、加村直澄の生育環境にも親から捨てられた子どもが関わってくる。
小森の家庭もそうだ。母子家庭であり親との感情の行き違いが描かれている。親から捨てられた僕にとっては共感できることばかり。ほとんどの主要キャラクターに感情移入ができるのは珍しいのだ。
とくに好きなのは序盤に描かれた羽山秋人の家庭を救済するシーンだった。
「愛してるから産んだ」と、その言葉をどれだけ望んだことか。
それは「愛してるよ」という言葉とは意味合いが違う。
愛してるから産んだのだ。だから、その後に捨てたとしても、産んだときは愛していたと。
これほどまでに言って欲しい言葉があるだろうか。
僕は、もう若くない。
残念ながら、と言うべきか、幸福なことに、と言うべきか、わからないが、親のことを恨んでいないのだ。
人には事情がある。
努力や根性ではどうにもならないことがある。
理解できてしまう。
いま25歳の人はこう考えて欲しい。自分が16歳のときに思っていた25歳って「こんなに大人ではなかったんだ」と感じないだろうか。両親が20歳のときに生まれた子なら、自分が30歳になったときを考えてみて欲しい。自分が10歳だったときに親は30歳だったが「30歳とはこれほどまでに未熟なのか」と。
ずっと必死じゃないか。大人の余裕などない。生きることに必死だ。毎日に必死だ。すり減らして、すり減らして、やっとのことでハードルを越えている。
自分が歳を取ったから、それがわかってしまう。
だから恨んでいない。
でも許してはいない。
彼らが僕にあやまっていないからだ。
ただ謝罪の言葉を述べて欲しいわけではない。気持ちを知りたいのだ。
──あのときはこういう状況だった。どうしようもなかった。自分のことで必死だった。こう考えていたけど、そうすることができなかった。弱かった。能力が足りなかった。こういう失敗をした。──だから許して欲しい、と。
もし、あやまってくれたら、事情を話してくれたら、いつでも許す準備はできているのに。
彼らはあやまることはないだろう。
僕の気持ちを理解することはないだろう。
だけど、ほんの少しの希望として、ここに道しるべのパンを落とす。
僕が何を見て、どう感じ、どうやって生きてきたか。
彼らが知って、僕にあやまるための道しるべだ。
届いて欲しい。鳥に食べられることなく。
──シルベノパンより──展開▼
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ゴクドーくん漫遊記は1999年に放送されたアニメ。原作の小説版は『極道くん漫遊記』という漢字表記のタイトルだ。僕は原作小説とアニメ版の両方が好きで、原作小説は全13巻と外伝の10巻、アニメ版はDVDを…ゴクドーくん漫遊記は1999年に放送されたアニメ。原作の小説版は『極道くん漫遊記』という漢字表記のタイトルだ。僕は原作小説とアニメ版の両方が好きで、原作小説は全13巻と外伝の10巻、アニメ版はDVDを持っている。
ゴクドーくんが教えてくれるのは自由と現実だ。
村娘がさらわれたとき、普通の主人公は助けようとするだろう。ゴクドーくんは「前金でお金を払わないと助けない」と村娘の父親に言った。そして、前金(金貨50枚)を貰うと娘を助けず旅立ってしまう。
ゴクドーくんの根底にあるのは自分本位だ。貧乏人がお腹を空かせていてもお金持ちはご飯をくれない現実。だから何としても自分で得るしかない。そういった人生哲学から自由が生まれている。
僕は縛られることが多かった。
小学校の頃、友達と遊ぶ約束をして家に帰ると遊ぶのを禁止された。何か必要な用事があるわけではない。父親が休みのときは同じ場所に居なければならない、というのが理由だった。
中学になると縛りは厳しくなった。
僕の地域では複数の小学校から1つの中学校に生徒が集まる。すぐに新しい友だちができた。Kくんだ。話していて気があうと感じていたし、Kくんからも積極的に遊びに誘ってくれた。彼はは少し大人びていて、エアガンの改造にも詳しい。公園に集まってはエアガンの話をしたり、空き缶を狙って撃つ遊びをしていた。
あるとき、Kくんと遊んでいることが母親にバレた。
母親はKくんと遊ぶことを禁止した。
「Kくんの家は団地だからダメだ」
「団地に住んでるのは低俗だから遊んではいけない」
「貧乏人と遊ぶな」
僕は彼と遊べなくなった。仲の良かった友達グループにKくんが入っているので、そのグループでも遊べなくなり、ハブられてしまった。
ゴクドーくんの振る舞いは、そういった苦しい体験の1つ1つをぶち壊す。彼には生まれも血筋も関係ない。自分本位で生きることのできる、自由の象徴なのだ。展開▼
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フルーツバスケットは花とゆめで連載されていた少女漫画。2001年にアニメ化され、2019年にリメイクで再度アニメ化された。事故で母親を亡くした主人公の本田透が、同級生の草摩の一族と共に生活する話である…フルーツバスケットは花とゆめで連載されていた少女漫画。2001年にアニメ化され、2019年にリメイクで再度アニメ化された。事故で母親を亡くした主人公の本田透が、同級生の草摩の一族と共に生活する話である。
草摩の一族はそれぞれ呪いを一身に背負っている。心が凍りつき、傷ついている。
でも本田透がいるだけで氷を溶けていく。傷を守るために作り上げた鎧が瓦解していく。そばにいるだけで救い出してくれる。そんな存在だ。
まだ僕が子どもだった頃の話。
何かのテレビで「お父さんに勉強を教えて貰って絆を作ろう」といった特集を見た。自分から勉強のわからないところを質問すると、お父さんが喜んでくれるというのだ。
僕のお父さんは怒ってばかりだった。勉強のことを聞いたら喜んでくれるだろうと思った。でも漢字や計算問題だとわからなくて恥をかいてしまうかもしれない。だから工作のことを聞こうと決めた。
その日は学校があったけれど、お父さんは休みだった。授業が終わったら急ぎ足。「褒めて貰えるぞ」と思いながら楽しみに帰った。
工作のことを聞いた。
そうしたら1時間かけて怒られた。
「普段から授業を聞いていればわかるはずだ」「無駄に学校に行っているからだ」と。
そうだよ。
だから僕は聞かなくたって工作のことはわかっていた。わかっていたけど聞いたんだ。工作が得意そうだと思ったから。
・・また別の日。
僕はお母さんにプレゼントを買うことにした。
母の日の定番はカーネーションだったから花をあげることにした。
でも、花は嫌いだと言って世話をしてくれなかった。
花はすぐに枯れてしまい、捨てられた。
だから次回は「花をプレゼントしないようにしよう」と心に決めた。
そして翌年。
プレゼントを選びに行った。
花ではなく普段から使うものがいいと思った。
目に止まったのはふきんだ。
家事を大変に思ったときでも、プレゼントされた道具ならやる気がアップすると思った。
また怒られた。
家政婦だと思っているのか、と怒鳴られる。
僕はプレゼントは大変だということを学んだ。
・・僕の誕生日がきた。
友達からプレゼントを貰った。
レジ袋に包んであって、雑にセロハンテープで閉じてある。
中を見ると人生ゲームだった。
新品じゃなくて中古だ。
でも僕には関係なかった。人生ゲームは好きだったし、プレゼントしてくれた行為そのものを嬉しいと感じたからだ。
そのプレゼントをお母さんに見せた。
すると、うちのことを舐めてるんだ、と言って怒りだした。
「そんな汚いもので遊ぶな」と言って捨てられた。
プレゼントを貰ったら文句をつけて怒る。
僕が両親から学んだことだ。
そして。
プレゼントを分かちあう。
僕が本田透と、透のお母さんから学んだことだ。
『でも疑うよりは信じなさいって お母さんが言っていました 人はやさしさを持って生まれてこないんだよって 生まれながらに持ってるのは 食欲とか物欲とか そういう欲だけなんですって やさしさは体が成長するのと同じで 自分の中で育てていく心なんだ…って 疑うなんて誰にでもできる簡単なことだし 信じてあげな 透は信じてあげられる子になりな それはきっと 誰かの力になる』展開▼
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機動戦艦ナデシコは1996年に放映されたアニメだ。SFロボットとラブコメの掛け合わせ。コメディ色の強いポップさ、エヴァのようなシナリオの重さの両方を含んでいる作品である。
僕にとってのナデシコは世…機動戦艦ナデシコは1996年に放映されたアニメだ。SFロボットとラブコメの掛け合わせ。コメディ色の強いポップさ、エヴァのようなシナリオの重さの両方を含んでいる作品である。
僕にとってのナデシコは世間一般のナデシコとは別物だ。
僕がナデシコを初めて見たのは1998年。『機動戦艦ナデシコ-Theprinceofdarkness-』という映画だ。本作はスレイヤーズの映画『スレイヤーズごぅじゃす』との同時上映だった。
その日もスレイヤーズを見るために映画館に行ったのだ。
ナデシコの存在は知らなかった。
一般的にナデシコの主人公はテンカワ・アキトとミスマル・ユリカであるが、その2人は劇場版ナデシコにほとんど登場しない。劇場版だけを見た人にとって主人公は16歳のホシノ・ルリであり、ナデシコBの艦長だ。
劇場版ナデシコを見たときに戦律が走った。
スレイヤーズ目当てだったにも関わらず、同じ映画を2.5周した。
スレイヤーズを2回見て、ナデシコを3回見た。当時は1回のチケットで何度でも映画を見られたので連続で見続けた。そのあと僕はナデシコにハマったが原作アニメを見るのは先のことになる。
映画のあとに見たのは小説だった。『ルリの航海日誌上・下巻』『機動戦艦ナデシコルリAからBへの物語』の3冊。ルリの視点で見たアニメでの出来事と、アニメから劇場版までの3年間の出来事を書いた内容である。
映画→小説というストーリーのたどりかたをした僕にとってナデシコはこんな話だ。
──親のいないルリが、戦艦という閉ざされた空間の中で、疑似家族ごっこ、疑似学校ごっこをしていく話──
そういう見方をするなら劇場版ナデシコもその延長線上にある。
子どもにとって親とは、何の努力も必要とせず、ただ与えられるものだ。誰もが手にするはずのものだ。ルリは与えられなかった。家族がいないことは切実だ。ナデシコAのオペレータになることでクルーとの疑似家族が形成されたが、アニメ終了後には家族がバラバラになって消えてしまう。
家族を失ったあと、今度は自分で居場所をつくらなければならない。偶然手にした疑似家族とは違う、自分がつくりだす居場所。その居場所がナデシコBであり、居場所を共にするのがマキビ・ハリや高杉三郎太といったクルーだ。
劇場版の物語はそこからスタートし、こんどはナデシコCに乗るためナデシコA時代のクルーを集める。これは恋しい家族の呼び戻しとは違う。疑似家族としてではなく同窓会として。16歳の自分が大人になるためのハードルでもあった。
だから僕にとってのナデシコはルリが主役であり、最初から最後までずっと家族の物語なのだ。展開▼
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ヒカルの碁は囲碁の漫画・アニメ。
小学生の進藤ヒカルが平安時代の天才棋士-藤原佐為-に取り憑かれてスタートする。最初は藤原佐為の言われた通りに囲碁を打つが、囲碁にハマったヒカルは自身も棋士を目指すよ…ヒカルの碁は囲碁の漫画・アニメ。
小学生の進藤ヒカルが平安時代の天才棋士-藤原佐為-に取り憑かれてスタートする。最初は藤原佐為の言われた通りに囲碁を打つが、囲碁にハマったヒカルは自身も棋士を目指すようになる。
藤原佐為が幽霊になったのは囲碁が好きだからだ。
神の一手を極めたいという強い想いが成仏を阻んでいる。
僕は佐為に共感する。
同じものを1000年間、熱中から冷めずに好きなのだ。
僕が90年代の作品について話すと「懐かしい」と言われる。
平成生まれ、令和生まれはもちろんのこと、昭和生まれの人にも懐かしい話題だと。
でも僕にとっては昨日のことだ。
作品に出会ったときの衝撃と、好きになった情熱を、いまでも失っていない。
スマホの壁紙も、着信音も、好きな作品のままだ。
フリマアプリで当時のグッズを買い続けてる。
いくら年月が過ぎようとも、好きな気持ちはいっこうに衰えない。
1000年後も同じだ。
ヒカルの碁では、その先に何があるのかも描かれている。
1000年好きでいた先に何があるか。
僕が死ねば集めたグッズは処分されるだろう。アンティークや歴史的資料ではない。価値がないと判断されて一括で処分される。
好きな気持ちは自己満足だ。自己満足でいい。
僕という存在は作品に育てられた。
僕がつくる作品には、スレイヤーズ、クレヨンしんちゃん、魔法陣グルグルなど、多くの作品の血が混ざってる。
きっとエッセンスが紡がれる。
ほんの少しだけ、たった1ミリだけ、未来に繋がっていく。
ヒカルの碁はそういう漫画だと僕は思っている。展開▼
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魔法陣グルグルは、ガンガンで連載されていたギャグ漫画だ。ミグミグ族だけが使える魔法、グルグルを使える少女ククリと、少年勇者のニケが旅に出る。
グルグルで僕が好きなところの1つにドラゴンクエストのパ…魔法陣グルグルは、ガンガンで連載されていたギャグ漫画だ。ミグミグ族だけが使える魔法、グルグルを使える少女ククリと、少年勇者のニケが旅に出る。
グルグルで僕が好きなところの1つにドラゴンクエストのパロディ部分がある。キャラクターの身にイベントが起きた時、漫画の中にメッセージウィンドウが表示される。
黒いウィンドウに白い文字。『勇者は○○をした』といった感じだ。いわゆるメタ発言・メタ認知である。漫画の世界と、その漫画を外側から眺めている存在が、1つのページに混在している。
僕は幼少期からツラいことが多かった。ツラくなるたびにメッセージウィンドウを思い浮かべた。『○○は痛い思いをした』とか『○○は裏切られた』とか……、ウィンドウでツッコミが入ると、ショックな出来事が、ただのイベントのように感じられる。
思い出すのは夏休みのことだ。
2025年の夏、夏休みには学校給食がないため経済的余裕のない家での子どもの食事が減っているとニュースが流れた。僕にも似たような経験がある。
お昼を買うためのお金がテーブルに置いてある。しかし、それだけでは満腹にならない。お腹が空いた状態でお昼を食べ終わることが多かった。
こんなときはウィンドウだ。
『勇者は空腹を忘れてしまった』
考えないようにする。
子を愛する親であれば「お腹いっぱい食べさせたい」という感情が湧くはずだ。
だからきっと空腹なのは間違いだ。
空腹が現実なら、まるで愛されていないみたいじゃないか。
お腹が減ったらグルグルのページをめくればいい。
キタキタおやじがワキでおにぎりを握っているから食欲なんて失せてしまうのだ。展開▼
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