機動戦艦ナデシコは1996年に放映されたアニメだ。SFロボットとラブコメの掛け合わせ。コメディ色の強いポップさ、エヴァのようなシナリオの重さの両方を含んでいる作品である。
僕にとってのナデシコは世…機動戦艦ナデシコは1996年に放映されたアニメだ。SFロボットとラブコメの掛け合わせ。コメディ色の強いポップさ、エヴァのようなシナリオの重さの両方を含んでいる作品である。
僕にとってのナデシコは世間一般のナデシコとは別物だ。
僕がナデシコを初めて見たのは1998年。『機動戦艦ナデシコ-Theprinceofdarkness-』という映画だ。本作はスレイヤーズの映画『スレイヤーズごぅじゃす』との同時上映だった。
その日もスレイヤーズを見るために映画館に行ったのだ。
ナデシコの存在は知らなかった。
一般的にナデシコの主人公はテンカワ・アキトとミスマル・ユリカであるが、その2人は劇場版ナデシコにほとんど登場しない。劇場版だけを見た人にとって主人公は16歳のホシノ・ルリであり、ナデシコBの艦長だ。
劇場版ナデシコを見たときに戦律が走った。
スレイヤーズ目当てだったにも関わらず、同じ映画を2.5周した。
スレイヤーズを2回見て、ナデシコを3回見た。当時は1回のチケットで何度でも映画を見られたので連続で見続けた。そのあと僕はナデシコにハマったが原作アニメを見るのは先のことになる。
映画のあとに見たのは小説だった。『ルリの航海日誌上・下巻』『機動戦艦ナデシコルリAからBへの物語』の3冊。ルリの視点で見たアニメでの出来事と、アニメから劇場版までの3年間の出来事を書いた内容である。
映画→小説というストーリーのたどりかたをした僕にとってナデシコはこんな話だ。
──親のいないルリが、戦艦という閉ざされた空間の中で、疑似家族ごっこ、疑似学校ごっこをしていく話──
そういう見方をするなら劇場版ナデシコもその延長線上にある。
子どもにとって親とは、何の努力も必要とせず、ただ与えられるものだ。誰もが手にするはずのものだ。ルリは与えられなかった。家族がいないことは切実だ。ナデシコAのオペレータになることでクルーとの疑似家族が形成されたが、アニメ終了後には家族がバラバラになって消えてしまう。
家族を失ったあと、今度は自分で居場所をつくらなければならない。偶然手にした疑似家族とは違う、自分がつくりだす居場所。その居場所がナデシコBであり、居場所を共にするのがマキビ・ハリや高杉三郎太といったクルーだ。
劇場版の物語はそこからスタートし、こんどはナデシコCに乗るためナデシコA時代のクルーを集める。これは恋しい家族の呼び戻しとは違う。疑似家族としてではなく同窓会として。16歳の自分が大人になるためのハードルでもあった。
だから僕にとってのナデシコはルリが主役であり、最初から最後までずっと家族の物語なのだ。展開▼
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