僕が見たのははキャサリン・ライアン・ハイドの小説を原作とする映画だ。
中学1年生の少年は学校の課題をキッカケに社会運動を始める。
「ペイ・フォワード」
自分が善意を受け取ったとき、相手にお返し…僕が見たのははキャサリン・ライアン・ハイドの小説を原作とする映画だ。
中学1年生の少年は学校の課題をキッカケに社会運動を始める。
「ペイ・フォワード」
自分が善意を受け取ったとき、相手にお返しをするのではなく、別の3人に善意を渡す。すると世界中が善意であふれるようになる、という提案だ。
この映画は衝撃的な結末だと言われる。
僕は、この結末が好きだ。なぜならこの結末にリアリティを感じるからだ。
"善意を渡す"を続けると必ずこうなる。
以前、クラスのイジメをとめたら自分がターゲットにされたと書いた。その前日まで、普通に何人も友達がいた。グループに入っていた。休みの日にスポーツをしたり、一緒に買い物に行ったり、学校生活を楽しんでいた。
イジメをとめた瞬間に全てを失った。
"善意を渡す"というのは個人の利益を手放すということだ。
もちろん不満はない。僕が勝手にやったことだ。
勝手に個人の利益を手放した。
だけど、こっそり、誰もいないところで、「イジメをとめて偉かったね」とか「ターゲットにならないために無視はするけど本心では嫌ってないよ」とか、たったひとことでも言葉をかけてくれる人がいたら、よかった。
1人でもいたらそれでよかった。でも現実には1人もいなかった。"善意を渡す"を続けると必ずこうなるのだ。展開▼
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魔法陣グルグルは、ガンガンで連載されていたギャグ漫画だ。ミグミグ族だけが使える魔法、グルグルを使える少女ククリと、少年勇者のニケが旅に出る。
グルグルで僕が好きなところの1つにドラゴンクエストのパ…魔法陣グルグルは、ガンガンで連載されていたギャグ漫画だ。ミグミグ族だけが使える魔法、グルグルを使える少女ククリと、少年勇者のニケが旅に出る。
グルグルで僕が好きなところの1つにドラゴンクエストのパロディ部分がある。キャラクターの身にイベントが起きた時、漫画の中にメッセージウィンドウが表示される。
黒いウィンドウに白い文字。『勇者は○○をした』といった感じだ。いわゆるメタ発言・メタ認知である。漫画の世界と、その漫画を外側から眺めている存在が、1つのページに混在している。
僕は幼少期からツラいことが多かった。ツラくなるたびにメッセージウィンドウを思い浮かべた。『○○は痛い思いをした』とか『○○は裏切られた』とか……、ウィンドウでツッコミが入ると、ショックな出来事が、ただのイベントのように感じられる。
思い出すのは夏休みのことだ。
2025年の夏、夏休みには学校給食がないため経済的余裕のない家での子どもの食事が減っているとニュースが流れた。僕にも似たような経験がある。
お昼を買うためのお金がテーブルに置いてある。しかし、それだけでは満腹にならない。お腹が空いた状態でお昼を食べ終わることが多かった。
こんなときはウィンドウだ。
『勇者は空腹を忘れてしまった』
考えないようにする。
子を愛する親であれば「お腹いっぱい食べさせたい」という感情が湧くはずだ。
だからきっと空腹なのは間違いだ。
空腹が現実なら、まるで愛されていないみたいじゃないか。
お腹が減ったらグルグルのページをめくればいい。
キタキタおやじがワキでおにぎりを握っているから食欲なんて失せてしまうのだ。展開▼
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ヒカルの碁は囲碁の漫画・アニメ。
小学生の進藤ヒカルが平安時代の天才棋士-藤原佐為-に取り憑かれてスタートする。最初は藤原佐為の言われた通りに囲碁を打つが、囲碁にハマったヒカルは自身も棋士を目指すよ…ヒカルの碁は囲碁の漫画・アニメ。
小学生の進藤ヒカルが平安時代の天才棋士-藤原佐為-に取り憑かれてスタートする。最初は藤原佐為の言われた通りに囲碁を打つが、囲碁にハマったヒカルは自身も棋士を目指すようになる。
藤原佐為が幽霊になったのは囲碁が好きだからだ。
神の一手を極めたいという強い想いが成仏を阻んでいる。
僕は佐為に共感する。
同じものを1000年間、熱中から冷めずに好きなのだ。
僕が90年代の作品について話すと「懐かしい」と言われる。
平成生まれ、令和生まれはもちろんのこと、昭和生まれの人にも懐かしい話題だと。
でも僕にとっては昨日のことだ。
作品に出会ったときの衝撃と、好きになった情熱を、いまでも失っていない。
スマホの壁紙も、着信音も、好きな作品のままだ。
フリマアプリで当時のグッズを買い続けてる。
いくら年月が過ぎようとも、好きな気持ちはいっこうに衰えない。
1000年後も同じだ。
ヒカルの碁では、その先に何があるのかも描かれている。
1000年好きでいた先に何があるか。
僕が死ねば集めたグッズは処分されるだろう。アンティークや歴史的資料ではない。価値がないと判断されて一括で処分される。
好きな気持ちは自己満足だ。自己満足でいい。
僕という存在は作品に育てられた。
僕がつくる作品には、スレイヤーズ、クレヨンしんちゃん、魔法陣グルグルなど、多くの作品の血が混ざってる。
きっとエッセンスが紡がれる。
ほんの少しだけ、たった1ミリだけ、未来に繋がっていく。
ヒカルの碁はそういう漫画だと僕は思っている。展開▼
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機動戦艦ナデシコは1996年に放映されたアニメだ。SFロボットとラブコメの掛け合わせ。コメディ色の強いポップさ、エヴァのようなシナリオの重さの両方を含んでいる作品である。
僕にとってのナデシコは世…機動戦艦ナデシコは1996年に放映されたアニメだ。SFロボットとラブコメの掛け合わせ。コメディ色の強いポップさ、エヴァのようなシナリオの重さの両方を含んでいる作品である。
僕にとってのナデシコは世間一般のナデシコとは別物だ。
僕がナデシコを初めて見たのは1998年。『機動戦艦ナデシコ-Theprinceofdarkness-』という映画だ。本作はスレイヤーズの映画『スレイヤーズごぅじゃす』との同時上映だった。
その日もスレイヤーズを見るために映画館に行ったのだ。
ナデシコの存在は知らなかった。
一般的にナデシコの主人公はテンカワ・アキトとミスマル・ユリカであるが、その2人は劇場版ナデシコにほとんど登場しない。劇場版だけを見た人にとって主人公は16歳のホシノ・ルリであり、ナデシコBの艦長だ。
劇場版ナデシコを見たときに戦律が走った。
スレイヤーズ目当てだったにも関わらず、同じ映画を2.5周した。
スレイヤーズを2回見て、ナデシコを3回見た。当時は1回のチケットで何度でも映画を見られたので連続で見続けた。そのあと僕はナデシコにハマったが原作アニメを見るのは先のことになる。
映画のあとに見たのは小説だった。『ルリの航海日誌上・下巻』『機動戦艦ナデシコルリAからBへの物語』の3冊。ルリの視点で見たアニメでの出来事と、アニメから劇場版までの3年間の出来事を書いた内容である。
映画→小説というストーリーのたどりかたをした僕にとってナデシコはこんな話だ。
──親のいないルリが、戦艦という閉ざされた空間の中で、疑似家族ごっこ、疑似学校ごっこをしていく話──
そういう見方をするなら劇場版ナデシコもその延長線上にある。
子どもにとって親とは、何の努力も必要とせず、ただ与えられるものだ。誰もが手にするはずのものだ。ルリは与えられなかった。家族がいないことは切実だ。ナデシコAのオペレータになることでクルーとの疑似家族が形成されたが、アニメ終了後には家族がバラバラになって消えてしまう。
家族を失ったあと、今度は自分で居場所をつくらなければならない。偶然手にした疑似家族とは違う、自分がつくりだす居場所。その居場所がナデシコBであり、居場所を共にするのがマキビ・ハリや高杉三郎太といったクルーだ。
劇場版の物語はそこからスタートし、こんどはナデシコCに乗るためナデシコA時代のクルーを集める。これは恋しい家族の呼び戻しとは違う。疑似家族としてではなく同窓会として。16歳の自分が大人になるためのハードルでもあった。
だから僕にとってのナデシコはルリが主役であり、最初から最後までずっと家族の物語なのだ。展開▼
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フルーツバスケットは花とゆめで連載されていた少女漫画。2001年にアニメ化され、2019年にリメイクで再度アニメ化された。事故で母親を亡くした主人公の本田透が、同級生の草摩の一族と共に生活する話である…フルーツバスケットは花とゆめで連載されていた少女漫画。2001年にアニメ化され、2019年にリメイクで再度アニメ化された。事故で母親を亡くした主人公の本田透が、同級生の草摩の一族と共に生活する話である。
草摩の一族はそれぞれ呪いを一身に背負っている。心が凍りつき、傷ついている。
でも本田透がいるだけで氷を溶けていく。傷を守るために作り上げた鎧が瓦解していく。そばにいるだけで救い出してくれる。そんな存在だ。
まだ僕が子どもだった頃の話。
何かのテレビで「お父さんに勉強を教えて貰って絆を作ろう」といった特集を見た。自分から勉強のわからないところを質問すると、お父さんが喜んでくれるというのだ。
僕のお父さんは怒ってばかりだった。勉強のことを聞いたら喜んでくれるだろうと思った。でも漢字や計算問題だとわからなくて恥をかいてしまうかもしれない。だから工作のことを聞こうと決めた。
その日は学校があったけれど、お父さんは休みだった。授業が終わったら急ぎ足。「褒めて貰えるぞ」と思いながら楽しみに帰った。
工作のことを聞いた。
そうしたら1時間かけて怒られた。
「普段から授業を聞いていればわかるはずだ」「無駄に学校に行っているからだ」と。
そうだよ。
だから僕は聞かなくたって工作のことはわかっていた。わかっていたけど聞いたんだ。工作が得意そうだと思ったから。
・・また別の日。
僕はお母さんにプレゼントを買うことにした。
母の日の定番はカーネーションだったから花をあげることにした。
でも、花は嫌いだと言って世話をしてくれなかった。
花はすぐに枯れてしまい、捨てられた。
だから次回は「花をプレゼントしないようにしよう」と心に決めた。
そして翌年。
プレゼントを選びに行った。
花ではなく普段から使うものがいいと思った。
目に止まったのはふきんだ。
家事を大変に思ったときでも、プレゼントされた道具ならやる気がアップすると思った。
また怒られた。
家政婦だと思っているのか、と怒鳴られる。
僕はプレゼントは大変だということを学んだ。
・・僕の誕生日がきた。
友達からプレゼントを貰った。
レジ袋に包んであって、雑にセロハンテープで閉じてある。
中を見ると人生ゲームだった。
新品じゃなくて中古だ。
でも僕には関係なかった。人生ゲームは好きだったし、プレゼントしてくれた行為そのものを嬉しいと感じたからだ。
そのプレゼントをお母さんに見せた。
すると、うちのことを舐めてるんだ、と言って怒りだした。
「そんな汚いもので遊ぶな」と言って捨てられた。
プレゼントを貰ったら文句をつけて怒る。
僕が両親から学んだことだ。
そして。
プレゼントを分かちあう。
僕が本田透と、透のお母さんから学んだことだ。
『でも疑うよりは信じなさいって お母さんが言っていました 人はやさしさを持って生まれてこないんだよって 生まれながらに持ってるのは 食欲とか物欲とか そういう欲だけなんですって やさしさは体が成長するのと同じで 自分の中で育てていく心なんだ…って 疑うなんて誰にでもできる簡単なことだし 信じてあげな 透は信じてあげられる子になりな それはきっと 誰かの力になる』展開▼
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ゴクドーくん漫遊記は1999年に放送されたアニメ。原作の小説版は『極道くん漫遊記』という漢字表記のタイトルだ。僕は原作小説とアニメ版の両方が好きで、原作小説は全13巻と外伝の10巻、アニメ版はDVDを…ゴクドーくん漫遊記は1999年に放送されたアニメ。原作の小説版は『極道くん漫遊記』という漢字表記のタイトルだ。僕は原作小説とアニメ版の両方が好きで、原作小説は全13巻と外伝の10巻、アニメ版はDVDを持っている。
ゴクドーくんが教えてくれるのは自由と現実だ。
村娘がさらわれたとき、普通の主人公は助けようとするだろう。ゴクドーくんは「前金でお金を払わないと助けない」と村娘の父親に言った。そして、前金(金貨50枚)を貰うと娘を助けず旅立ってしまう。
ゴクドーくんの根底にあるのは自分本位だ。貧乏人がお腹を空かせていてもお金持ちはご飯をくれない現実。だから何としても自分で得るしかない。そういった人生哲学から自由が生まれている。
僕は縛られることが多かった。
小学校の頃、友達と遊ぶ約束をして家に帰ると遊ぶのを禁止された。何か必要な用事があるわけではない。父親が休みのときは同じ場所に居なければならない、というのが理由だった。
中学になると縛りは厳しくなった。
僕の地域では複数の小学校から1つの中学校に生徒が集まる。すぐに新しい友だちができた。Kくんだ。話していて気があうと感じていたし、Kくんからも積極的に遊びに誘ってくれた。彼はは少し大人びていて、エアガンの改造にも詳しい。公園に集まってはエアガンの話をしたり、空き缶を狙って撃つ遊びをしていた。
あるとき、Kくんと遊んでいることが母親にバレた。
母親はKくんと遊ぶことを禁止した。
「Kくんの家は団地だからダメだ」
「団地に住んでるのは低俗だから遊んではいけない」
「貧乏人と遊ぶな」
僕は彼と遊べなくなった。仲の良かった友達グループにKくんが入っているので、そのグループでも遊べなくなり、ハブられてしまった。
ゴクドーくんの振る舞いは、そういった苦しい体験の1つ1つをぶち壊す。彼には生まれも血筋も関係ない。自分本位で生きることのできる、自由の象徴なのだ。展開▼
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